このコンテンツは、2005年11月に作成されたものです。著者の所属・肩書は作成当時のものです。


筑前の磁器 『須恵焼』    ‐ 近世・近代文書、文献資料から論考する ‐

旧筑前国表糟屋郡須恵村東原伊勢山にあった磁器窯

(きゅうちくぜんのくにおもてかすやぐんすえむらとうばるいせやま)

 

はじめに

 

須恵焼以前、筑前では旧上座郡小石原村の枝村中野村上の原において磁器焼成が行なわれている。天和2年に開窯された中野焼である。享保年間に閉窯したとされるが、磁器の焼成期間は初期のころとされる。陶器磁器ともに焼かれた窯で、福岡県朝倉郡小石原村教育委員会による発掘調査が行なわれ、一定期間磁器の焼成が行われたことが確認報告されている。肥前磁器(伊万里)の技術を導入して生産が開始されたと考えられている。また磁器の量産をしたことで実質的に筑前領最初の磁器窯とみなされている。

またこれ以前、旧穂波郡相田村、白旗山高取の古窯跡及び旧上座郡宝珠山村の枝村である鼓村釜床における古窯跡の発掘調査で、鞘鉢に溶着した磁器片が検出された。それぞれ飯塚市、小石原村教育委員会による調査であったが、両委員会とも磁器焼成の可能性があることを報告している。しかしながら窯に伴う磁器片の出土がほとんどないことから、焼成が行なわれたとしても、試験的焼成とみなすのが自然であろう。少なくとも磁器が量産された形跡は認められない。また両窯とも磁器焼成の正確な時点は特定できていない。

 筑前領では、この小石原中野焼の後に磁器窯として須恵焼は起された。中野焼との直接の関連はないようである。 

 

1 白旗山窯(高取系)   における磁器焼成の可能性。 (現飯塚市幸袋町 旧穂波郡相田村) 

(寛永 7 1630 ~寛文 2 年頃 1662

2 鼓村釜床1号窯(高取系) における磁器焼成の可能性。

(現小石原村 旧上座郡宝珠山村枝村) (寛文 5 1665 ~元禄 17 1704

3 小石原村  中野焼における磁器の量産。筑前における最初の磁器量産。

(天和2年1682~享保3年1718) 

(年号の根拠は筑前国続風土記・筑前国続風土記附録。)   

 

須恵焼は現在の福岡県糟屋郡須恵町上須恵、通称「皿山」で焼かれていた磁器及び若干の陶器を指す。

 福岡平野の東部、筑豊エリアと福岡都市圏を分かつ三郡山地の中央付近にある「若杉山」の南西山麓部に築かれていた磁器窯であった。筑前福岡(黒田)藩の居城、福岡城から東に直線で約13㌔メーターの位置にある。窯跡の主要部分は、昭和55年(1980)福岡藩磁器御用窯跡として福岡県史跡文化財に指定保存されている。  

焼成期間は宝暦14年(1764)から明治35年(1902)頃までと推定される。

140年間近く継続し、旧筑前国において最大規模の磁器窯で、最長の焼成期間を持つ。江戸期に二期間の須恵皿山役所設置時代を持つことで筑前福岡藩磁器御用窯と称される。

明和8年(1771)の黒田家文書の中に「須恵焼」の呼称が確認できるので、初期からその固有の名称を持っていた。地元須恵の古老達は、今日に至るまで「皿山焼」と呼んでいる。

築窯の決定は福岡藩寺社奉行の記録係であった新藤安平常興が宝暦8年(1758)、須恵村で磁器用の白土を発見したことに始まる。起窯の特徴は安平の個人的動機のもとになされていることである。長年藩に奉公することで、恩恵を受けた福岡藩主に対する返礼の意味で磁器窯起窯にたどり着いた。築窯は宝暦14年で、費用は新藤安平の個人資金を投入している。起窯の動機が明確である点は極めて興味深い。

主たる製品は染付磁器であるが、白磁・青磁・錆釉磁器、銅釉を釉裏下に用いた着彩磁器に陶器も若干見られる。色絵の存在を指摘した文献があるが、須恵町では実物を確認していない。 

明治20年前後に多く焼かれた「金錆染付(きんさびそめつけ)」は須恵焼独特のもので、国内に類例を見ない。また極わずかであるが陶器も焼かれている。

製品の傾向は時代区分ごとに記述するが、築窯当初より肥前磁器の影響を強く受けている。概略的ではあるが、安政7年(万延1年)にはじまる二期目の須恵皿山役所時代は肥前・平戸領三河内・中国明・清の写しなどがなされるとともに、京都・瀬戸の陶画工が参画しているのでその影響も受けたと考えられる。他に博多人形の型を使った白磁の武者人形などもつくられており幕末期の須恵焼の種類は多岐にわたった。

須恵町立歴史民俗資料館は平成12年(2000)時点で、須恵焼の時代区分を便宜上以下の時代に区分しているが、その区分に従って論考して行く。 

 

筑前の磁器 須恵焼の時代区分

 

 1 創始時代              宝暦 初年( 1751 )~天明 4 年( 1784 34 年間

  2 第一期 須恵皿山役所時代  天明 4 年( 1784 )~文政 12 年( 1829 45 年間

  3 江戸期民窯時代             文政 12 年( 1829 )~安政 7 年( 1860 32 年間

  4 第二期 須恵皿山役所時代  安政 7 年( 1860 )~明治  3 年( 1870 11 年間

  5 明治期民窯時代             明治 3 年( 1870 )~明治 35 年( 1902 33 年間 

 

須恵町はその町名が示すように、主に古墳時代を中心に特色付けられる 器即ち須恵器の生産地であった。同じ福岡藩窯で茶陶として有名な高取焼の陰で、ほとんど注目されなかった須恵焼の歴史は、明治以降、春山育次郎・許斐友次郎・奥村次八郎・筑紫頼定・板橋謙吉(以上故人)、奥村武・鴻江敏雄の各氏による調査が続けられてきた。また昭和49年に須恵町立歴史民俗資料館が設立されて以降はここを中心に資料の整理がなされてきた。

今回、文書・文献資料を中心に整理を行なってきた結果を概略する。史料の整理また判読については九州大学文学部名誉教授であった故中村正夫・福岡藩政史研究者故安川巌・久留米大学文学部助教授池畑裕樹・福岡教育大学講師石瀧豊美の各氏にご協力いただいた。過去の研究者を含め先師達のおかげでここまで至ることができたことを、心より感謝申し上げたい。更に本文を本紙に発表することを勧めて頂いた、唐津焼の研究者故泉満氏にも心より感謝したい。今後、また新たな須恵焼の事実が確認されて行くと思うがまたその都度確度を高めて行くことになろう。この発表から他地方にある筑前須恵焼の資料が発見されれば幸いである。

付記して筆者は、西日本文化協会福岡県地域史研究所が平成4年(1992)1月31日に発行した「福岡県地域史研究」第10号に『筑前の磁器 須恵焼』‐基礎史料による年表‐を発表しているが、新史料の発見により、今回の本文で部分的に修正した。

 

1 筑前の磁器 須恵焼の創始時代     宝暦初年(1751)~天明  4年(1784) 34年間

 

創始時代は福岡藩寺社奉行の記録係であった新藤安平常興が発案から築窯、事業の拡大から城代組に加えられ勤務死するまでの34年間を指す。この間の記述は筑前の地誌「筑前国続風土記附録」編纂資料の筆写史料と考えられる「就御尋須恵皿山開基之事」が最も詳細且つ信憑性が高いことから、この史料の内容を中心に論考する。

史料の本文は11行の罫紙に筆写されており、幕末から明治年間に黒田藩の原資料を写し取ったものと推定されている。罫線外の右肩に、「表カスヤ」と分類表記があり、表題は「就御尋須恵皿山開基之事」(以下「就御尋」)となっている。問い合わせに対し回答する形式で、天明5年、須恵焼の創始者新藤安平の嫡男で初代須恵皿山奉行の新藤長平が回答している。  

筑前国続風土記附録は、筑前の儒者・博物学者である学者貝原益軒が江戸宝永6年(1709)に刊行した「筑前国続風土記」を補う目的で編纂され、寛政11年に公刊されたものである。藩命は天明4年のことで、編纂は加藤一純・鷹取周成が行なっている。

「就御尋」は藩命に呼応するように天明5年に書かれており、内容は附録中の須恵焼の記載内容に極めて近いことから、附録編纂の原資料の写しであろうと推定されている。

この史料が発見されるまで、新藤安平については、わずかに福岡藩寺社司(奉行所)の下吏であることしか判明してなかった。

またこれは新藤安平の家系についても詳述している。初代は毛利輝元に仕える武将であった。伯耆国で軍法に触れ浪人となる。二代目の時に福岡に移住し、五代目が新藤安平常興で養子として迎えられたことが記されている。三代から福岡藩の町方付となり、安平も家督を受けた享保18年(1733)以降、町方付の役も引き継いでいる。二十歳でその職位に就き、三十二年間藩主のために勤続した。この最終年が須恵焼の窯が初めて起こされた宝暦14年となり、安平51歳の年であった。

この期間を「就御尋」の記載に沿い主な流れを記録する。

 

1 新藤安平は宝暦8年(1758)以前に産業の起業を発想。(寺社奉行の記録係の時代ヵ)

2 福岡藩の産業振興を考慮し、磁器窯の起業を決定する。

3 宝暦8年、須恵村で磁器原料に使用できそうな白土を発見。(金山間掘係の時代ヵ)

4 この土を西皿山陶工に頼み、焼成試験をするが失敗。

(西皿山は、現在の福岡市早良区高取にあった高取焼の窯、藩用の茶道具を焼いた東皿山はすぐ東側にある。)

5 この後、この土を肥前国佐賀領南河原山の陶家で試験焼成を行ない成功。

 (肥前南河原樋口窯と推測。)

6 宝暦14年(1764)三十二年間勤続した町方付を退任し、磁器窯の築造に着手。

  (宝暦14年は6月2日から明和に改元。)

7 明和4年 近国焼物山大概帳 須恵皿山 釜数凡拾八間(一登)地土に天草土混用。

8 窯の拡張。肥前陶工の雇い入れ、事業を広げる。

9 藩より御仕立焼物所に指定され、御用焼物・江戸表からの注文等も受ける。

10 開窯から雇い続けてきた肥前陶工の行状悪く、地元の少年を陶工に育成開始。

11 安永5年(1776) 安平仕官受ける。

12 天明3年(1783) 安平当用方を命じられ、城代組になる。

13 天明4年(1784)2月5日皿山仕組経営による心労のため勤死。71歳。

14 天明4年2月21日 嫡子新藤長平 家督拝領 初代須恵皿山奉行を命じられる。

[天明5年(1785)8月  就御尋須恵皿山開基之事を藩宛て報告する。]

     7の記載のみ天草郡高浜村上田家文書

 

この文書は起業の動機について、藩主の恩に対して何らかの恩返しのために発案したことを記録している。後に藩の窯となる須恵焼が、このようなかたちで起こされたことが記録として残されていたことは極めて興味深い。宝暦8年以前、寺社奉行の記録係の時に、福岡藩にとって有益な事業を複数考案する中、磁器窯起窯に的を絞った。その後宝暦8年に須恵村及びその近村で磁器原料の白土を発見し、土が磁器に使えることを確認した上、築窯に至る。白土は安平の役職が金山間掘(鉱山の監督係ヵ)の時に発見されたと推定できる。この土はまず西皿山で磁器用原料として使用できるか試験焼成をするが、結果を出すことができなかった。西皿山窯は高取系の陶器窯であることから、磁器焼成技術がなかった理由による。

安平はこの後、更に土の試験焼成のため、磁器生産の先進地肥前佐賀領南河原山の窯元へ人を派遣する。依頼を受けたものは、二ヶ月余り滞在し、須恵産の白土が磁器原料として焼成可能であることを確認するに至った。試験焼成のために肥前の南河原山が選ばれたことは重要な意味を含んでいると考えられる。他国の者を受け入れることは、肥前国側にとっては磁器技術の漏洩を意味する。江戸宝暦 8 年に至れば、当初の統制から緩みも生じている頃であることも考えられるが、それでも磁器技術の漏洩に関しては厳しかったはずである。事実、試験焼成を受けて肥前に派遣する人物に対して、肥前において尋問を受けることを想定し、受け答えの事前準備をしている。肥前領へは「古手売」(古着古物売)として入国し、持ち込む土の産地を尋ねられた場合、唐津領から持って来たと答えるようにしたと記録されている。このような背景がありながらも、須恵産の白土は、磁器用の胎土原料として使用できることが肥前南河原の窯場で確認された。これを以 って築窯及び附属施設建設に着手した。新藤安平の個人財産を投入して実施することになるが、町家の者3~4人に出資を依頼して行なっている。この時点で、本事業の形態を「皿山仕組」と呼んでいる。また明和1年の青柳種信文書の判読文には「須恵皿山御用地」(土地のみ)と表記され、明和7年の地方文書田原正憲家文書には「御仕立皿山場所」とされている。これらの解釈は、設立から須恵皿山役所の開設までの、仕組の位置付あるいは経営形態の変化を探る資料となろう。

築窯の場所は旧筑前国表糟屋郡須恵村東原伊勢山で、用地の使用許可を藩から得ている。  

人夫を雇い、山地の整地を行ない、地引(用地に実際建設される構築物の平面図の線を引き示す事と考えられる。)、竈築立(連房式登窯を築く)、諸道具仕調(磁器製造に必要な用具で、胎土精製に関する、水臼・水簸施設などの磁器用胎土作り、釉薬作りの用具と施設、磁器成型に関する施設及び轆轤・各種筆類などの用具など一切の調達)した。このことで想像以上に経費を消耗し、資金不足に陥った安平は、新藤家伝世の諸道具、家屋敷まで売り払って磁器窯建設の運用資金とし、ここに最初の須恵焼の窯を築いた。この時点まで安平は何とか自分の努力で継続し、出資者へは焼出した焼物で滞ることなく返済したとされる。

この後施設は拡充され、陶工なども増員されたので、個人資金で運用するには限界となり、藩に仕入れ資金の借用を願い出たところ、受理され、御仕立焼物所に指定される。その後、藩からの注文も受け、江戸表からの招請も受けるようになった。この頃多数雇い入れた肥前陶工の素行が悪く、地元の少年達を陶工に育成したことが書かれている。

安平は安永5年に仕官を受け、天明3年当用方用方支配となり、城代組に加えられた。その翌年の天明4年2月5日、築窯からの心労のせいで、勤死したと記録されている。

更に同年2月21日、その嫡子長平は家督相続するとともに、後役を命じられ、須恵皿山奉行の役号を拝領し、ここに初めて福岡藩窯としての磁器「須恵焼」が発足した。

この期の製品は確認されたものが少なく、傾向を指摘するまでの資料はないが、明和6年銘の釈迦誕生仏台座、安永期の二彩鉢(呉須と褐色彩の筆画釉裏下彩)、天明期、須恵皿山役所開設時代と推定される一群の製品で、染付の花瓶・水差・蓋置・皿等が確認されている。 

製品の商圏は江戸・大坂・仙台・津軽・出羽・加賀金沢・越後新潟・甲州郡内・四国・中国・近国などが記録され、このような地方に筑前須恵焼が輸出されており、初期の段階で広範囲に至っていることが記録されている。

陶工に関して、地元陶工の記録はないが、かなりの数の肥前陶工が須恵に来ていたことが記録されている。

また伊予国大洲藩領砥部焼の創始に上須恵の陶工(藤永)信吉が関わっている。信吉は安永6年(1777)焼成が成功しない原因が釉薬の不良にあることを指摘し、筑前国上須恵村から蚊母樹灰(イスノキの灰で釉薬原料)を取り寄せ成功に導いたとされる。この陶工については地元須恵側に記録がなく、創始時代に他国の製陶指導に出国する理由が不明である。筆者はこの陶工を肥前陶工と推測している。何らかの理由で肥前陶工であること

を隠し、筑前須恵の陶工を名乗ったと考えている。

この間、西皿山に近い能古島に窯が起され、磁器も焼かれている。陶磁併焼の窯で長期間焼成は行なっていない。明和年間と天明1年の開窯説がある。出土磁器片を見ると、肥前の影響下にあったことは間違いないようだ。

また佐賀鍋島報效会が持つ近世文書、有田皿山代官旧記覚書(天明7年)には肥前陶工の出奔者が能古や須恵に来ていないか、捕縛に行く旨を記している。

 

2 第一期 須恵皿山役所時代  天明 4 年( 1784 )~文政 12 年( 1829 )  45 年間

              

天明4年(1784)2月21日、創始者新藤安平の嫡男新藤長平尚央が安平の死後、初代須恵皿山奉行に就任する。これは即ち須恵皿山役所が開設されたことを意味する。この時点で、現在の福岡市早良区高取付近にあった東皿山・西皿山両窯の西皿山窯は皿山役所が既に開設されていたので、西皿山役所と須恵皿山役所は明確に区別されるべき機関である。このことは福岡藩の分限帳にも区別されていることで分かる。因みに福岡藩の場合、須恵皿山奉行は郡奉行支配下に、西皿山奉行は馬廻組から選出されていた。文化分限帳はそれぞれ須恵皿山奉行「無当 役料米八俵 小者給米五俵」、西皿山奉行「役料米拾俵」となっている。 

初代須恵皿山奉行は創始者の意思を継ぎ、国焼としてのスタートを切ったが、江戸文化5年頃から、経営の不調が露見してくる。文化年間以降の斜陽傾向は、推測すれば製品の売り捌き              が開拓できなかった点である。結局売れなかったことで資金繰りに行き詰まりを生じたと見るのが妥当なところであろう。この点について『福岡藩民政誌略』は文化初年の須恵皿山の状況を「只工夫を費やすこと多ければ、高価ならざる事を得ざる故に、広布するに至らず。」とし、既に須恵焼の販売状況が思わしくない事を示している。 

開発に手間をかけすぎて製品の価格が上がり、売れ行きが良くないということである。当然本場伊万里の製品を凌ぐ製品の開発ができなかったということと、伊万里焼として確立された販売ルートに対抗できなかったことが推測できる。文化5年に運用資金を須恵の皿山役所に代って地元庄屋が借銀し、立て替えるが、恐らくこれを境に経営が改善される事なく、文政12年の須恵皿山役所の廃止に至ったと考えられる。この廃止を記録する文書は、天保7年の田原正憲家文書が根拠となっている。悪化の兆候を文化1年と考えると、この時点から約25年で須恵皿山役所は廃止されたことになる。この期間の主な事象を列記する。

 

1 天明4年(1784) 第1期須恵皿山役所の開設 初代須恵皿山奉行 新藤長平尚央 就御尋

2 寛政8年( 1796 ) 福岡藩御直仕入山 知行取1人 扶持・帯刀1人   天草高浜上田家文書

3 寛政11年(1799)司る吏二員ありて繁栄 寛政11年以前の記録      続風土記附録

4 文化1年(1804) 工夫に費やすこと多く製品の値段が高くなり広く売れなかった。 福岡藩民政誌略 (この頃を境に、経営が悪化し、初代須恵皿山奉行新藤長平も経営不振が理由で離任したものと推測できる。)

5 文化5年(1808) 須恵皿山仕組運用銀を地元庄屋源太郎が役所に代って借銀して立替

 須恵皿山奉行 鎌田藤右衛門・勝野藤太       田原貞敏家文書

6 文化8年(1811) 加瀬丈兵衛(御用商人) 須恵皿山に出銀(貸付) 文政5年に(寄附)

7 文化 13 年( 1816 ) 須恵皿山奉行 村上弥太夫             田原貞敏家文書

8 文化14年(1817) 須恵皿山焼物所御仕入銀返弁の願書          田原貞敏家文書

9 文政4・6年(1821・23) 須恵皿山仕入銀 庄屋立替分の催促       田原貞敏家文書

文政4年(1821)須恵皿山奉行 衣非安平・勝野藤太

10  文政 12 年( 1829 ) 須恵皿山仕組廃止                     田原正憲文書

(田原正憲家:旧上須恵村大庄屋の家系 田原貞敏家:旧上須恵村庄屋及び皿山庄屋の家系)

 

以下地方文書を中心に論考する。

「就御尋」が報告された天明5年(1785)のものと思われる、地元上須恵の庄屋の家系である田原正憲家文書に新藤長平支配皿山所人数の覚。17軒、人数百人余とあり須恵皿山役所開設当初の規模を記している。

この後、約11年後の寛政8年(1796)陶石の産地である肥後天草高浜村庄屋上田家の『近国焼物山大概帳』は須恵皿山の様子を「登窯2基、焼成室31室、原料地元の土に天草土を混ぜたものを使用、中級の磁器製品で、福岡藩の御直仕入山、知行取1人、扶持・帯刀1人。」と記している。知行取は須恵皿山奉行新藤長平のことで、最近判読された、福岡県糟屋郡新宮町横大路家文書に上府村に長平が知行地を持っていたことが推定できる文書が残されている。

一方、扶持・帯刀のものについて、文化分限帳には郡奉行支配「須恵皿山奉行」無当、役料米八俵、小者給米五俵と記録され、明治初年分限帳には新藤安平について治之の時代(治之は天明2年まで在位)から御切米七石三人扶持を得、無足組註として薬研丁に住むことが記録されていることから、扶持・帯刀の者が新藤長平のこととも解釈できる。

寛政11年(1799)に刊行した筑前国続風土記附録の記載には、「司る吏二員ありて繁栄す。」と著され上田家文書とほぼ同時期の須恵皿山仕組の管理状況を示している。

また原文書ではないが福岡藩民政誌略は文化初年(1804)を「竈41(焼成室)、水碓65を設け、陶人・画工聚りて、二十五戸一村をなし、其衆口を併せて、百五十余人に至る。只工夫を費やすこと多ければ、高価ならざる事を得ざる故に、広布するに至らず。」とし、天明4年から20年後の文化1年まで、施設や人員が増加したことが分かる。しかしながら製品の販売状況はこの記録からは、良好とは思えない。またこの頃から経営の悪化傾向が指摘されるようだ。

その後、筑前国続風土記拾遺の記録は「民居32戸、窯2所にあり、本登22竈(焼成室)新登13竈」としている。この調査年は特定できないが、編纂が始まる文化11年(1814)ころから表糟屋郡の廻村調査が行なわれたとされる文政8年(1825)の間の状況であると推測している。

これ以降、窯場の状況を示すものがないので、これ以降文政12年までの変遷は不明となる。尚、ここに列記した史料は筑前国続風土記附録及び拾遺を除き、異系列での資料であるので、一貫した調査内容ではなく、史料自体も複数の原史料で比較対照されたものではないので、この経過が正確であるかは評定できない。現存文書での経過を示すにとどめる。

この期間の変化点は前述のとおり、文化5年(1808)・6年である。地元須恵村庄屋源太郎が須恵皿山役所から仕入銀の支出がなされず、博多の商人豊後屋嘉助から皿山仕組運用銀6銭20貫750目を借入した時点から経営が確実に悪くなっていく。この文書は地元上須恵の田原貞敏家に伝世するもので、一連の文書は仕組経営状況の経年変化を探る好資料である。

更に前述の『福岡藩民政誌略』は文化初年の須恵皿山の状況について、須恵焼の売れ行きが思わしくないことを示している。当史料は明治17年に長野誠が編纂したもので原史料が不明であるが、文化年間に入って須恵皿山仕組の状況を記す唯一の史料で、信憑度は不明ながら、皿山仕組運用銀を博多商人に借銀する事となった文化5年への移行点を示すものである。

文化5年以前に運用銀の状況を示す原文書がないので文化5年が借銀の最初であるか確認できないが、これ以前に同内容の借銀がないならば、天明4年から文化5年までの間、須恵皿山役所の開設から、20数年間は藩(須恵皿山役所)の出銀で運用されていたことになる。その後、運用銀が藩から支出されなくなったので、博多の商人から資金を借りることとなる。これは地元の庄屋が行なうが、この村庄屋は「皿山庄屋(役)」という役割を兼務しており、ここに皿山仕組を地元で元締める専門の役があったことが確認できる。皿山仕組に関する藩(郡奉行)の直接の管理者である皿山奉行の下に、地元に配された責任者が皿山庄屋ということであろう。更にこの下には皿山組頭あるいは皿山頭取がいて窯場を仕切っていたことが文書から伺える。

一方、藩の御用商人を勤める加瀬丈兵衛も文化8年(1811)須恵皿山に対して6銭21貫16匁4分1厘を出銀。貸出したこの分について、加瀬丈兵衛は文政5年(1822)に寸志として寄附している。返済の見込みがなかったからであろう。

二例とも借銀の価が6銭20貫ほどで近似した価であることも興味深い。

文化5年に借銀した分については、残存する地方文書(田原貞敏家文書)で文化14年に、地元皿山庄屋から郡代役所宛、借銀返済の催促がなされたようだ。その後、同内容の文書が文政4年(1821)・文政6年と出されている。内容を見ると、文化5年からの皿山仕入銀借銀の経緯を示し催促しているが、文化5年以降、歴代須恵皿山奉行は具体的立替分の充当を履行せず、困惑する庄屋の姿を伺うことができる。結局藩(須恵皿山役所)から立替借銀分が上須恵村の皿山庄屋源太郎に返済されたかについては確認できる史料が見つからなかった。このような須恵皿山仕組の経営状況を背景に文政12年(1829)、須恵皿山役所は廃止に至った。

尚、この時期の須恵皿山役所(御仕組)は郡奉行下に置かれており、福岡藩‐糟屋・宗像郡奉行‐須恵皿山奉行‐皿山庄屋‐焼物頭取の組織系列であった。 

庄屋・陶工については上須恵村庄屋 (田原)源太郎(須恵皿山庄屋兼務)、陶工(小山田)伊太夫(頭取)、(小山田)伊三郎、(小山田)久七、(小山田)勝平等が文書上に見え、ほとんどが地元小山田家の陶工である。

また愛媛県伊予郡砥部町の文書に残る藤枝信吉(寛政3年)や讃岐富田窯の須恵村陶工権平・権助(寛政8年)なども確認できるが、須恵側にはこれらの陶工の記録が全くない。  

製品は天明期に特色のあるものがあるが、それ以外は殆ど確認されていない。

天明期恐らく須恵皿山役所開設時代の一群の製品で、染付の花瓶・水差・蓋置・皿等が確認されている。胎土は良質で、天草陶石を使用していることが推測できる。水差・花瓶の染付の山水文などは同時代の肥前製品に類似している。

天明期の製品は天明年製・天明年製スエ山などの銘が款されているものがある。釉薬も良質で、やや厚めに施され、釉溜は青白磁風に見えるものがある。また釉薬に細かい貫入が認められるものもある。須恵焼全般において年号や傾向を指摘できるものは極めて少なく、久我コレクションの須恵焼に寛政8年の染付呉洲両馬水差、文化年間製の須恵目薬製薬鉢などが確認できるのみである。

特筆すべき事は寛政8年(1796)前出の肥後天草高浜村大庄屋上田源作が島原藩大横目大原甚五左衛門宛てに、独自に『近国焼物山大概帳』を作成している。この史料は陶石の輸出で得た肥前・平戸・大村・唐津・柳川・薩摩・肥後・筑前・豊前・長門や伊予・讃岐・日向・対馬・安芸の各国にある窯場の情報を記している。更に天草陶石使用の有無を明記していて極めて貴重な窯業統計資料といえる。筑前須恵焼のことも記録されていて、皿山役所の開設から、13年後の状況を「筑前領皿山の分 一須恵皿山 登窯2基 焼成室31室 胎土原料は地元の土に天草土を混ぜたもの。中級(程度)の磁器。福岡藩の御直仕入山で知行取1人、扶持・帯刀許さる者1人。製品は藩用と商売用のものを生産。」と記している。筑前国以外の資料で須恵焼の窯場を記録する極めて貴重なものと言える。またこの史料は未確認資料ながら創始時代の章で紹介した、明和4年のものと対比して考慮すべきものである。

また文政3年の地元上須恵の田原貞敏家文書に本窯の焼成が年4乃至5回焼かれていることが記録されている。借用証文に書かれたもので、借銀の返済を見込年4回~5回の窯焼の製品売上で返済するというものである。これは須恵焼本窯の火入が年4~5回行われていたことを示し、更に須恵皿山役所の管理下で、商売窯として稼動していることを知ることができ

 

3 江戸期民窯時代            文政 12 年( 1829 )~安政 7 年( 1860 )  32 年間

 

須恵皿山役所が廃止されて、地元の陶工たちによる窯場の継続がなされる。地元の陶工の主たる家系は小山田家である。皿山保正の役にあった家系である。小山田姓は隣村佐谷村に確認でき、少なくとも須恵焼が始まる以前から存在している。その関係から佐谷村に発する可能性もある。いずれにしても須恵皿山の小山田姓の家系に関して、須恵焼が始まる以前の記録が残されていないので、判断できる材料がない。幕末には小山田姓以外の陶工の家系が認められるが、この期間は小山田姓以外に確認できない。

須恵皿山役所の経営破綻から引き続く時代であるので、飛躍的発展は考えにくい時代で、製品等の情報も最も少ない期間である。

主な経過を記録する。

 

1 文政13年(1830) 若殿様上須恵村外を訪問し須恵皿山で絵付等を行なう。田原正憲家文書

2 天保8年(1837) 郡役所達 皿山中粮物差支のため               田原正憲家文書

3 弘化4年(1847) 博多中島町南新地に福岡藩精錬所が設置される。    

4 嘉永1年( 1848 ) 郡役所達 皿山願書                       田原正憲家文書

5 安政3年( 1856 ) 野間焼開窯                             日本近世窯業誌

6 安政7年(1860) 民窯時代の終了(安政末年)                  都久志第5号

 

須恵皿山役所が廃止された翌年の文政13年、この4年後に11代福岡藩主を継ぐ黒田長溥が須恵皿山を訪問している。この記録は地方文書、田原正憲家文書の中に残されており、「若殿様上須恵村御成達記録」の表題を持つ。これから約30年後に長溥が殖産興業の一環として須恵焼を再興することになる。

 

若殿様上須恵村御成達記録  文政 13 年閏           (須恵焼分抜粋)

 

    御覧之焼物細工之事

広東 茶台 徳利 花活 きびしょう 茶碗 植木鉢 茶壷        実  次

輪 盃したため ゑふご 珠光猫かき 水差 沓形茶碗 道外茶碗     貞  平

花瓶 卓下花活 大手手水鉢 いらほ 水翻

出し茶 皿 丼 大鉢 大花卸 暖ひん しの口 盃台 油すまし     半右衛門

小福 八歩猪口 菊皿 本皿 奈良茶 五寸蓋物 すすぎ 三ツ組盃    国  吉

   糸底拵之事

広東 輪 茶漬 丼 花おろし あんこう 徳利             勝  平

   絵書之事

小鉢ニ宝珠 中鉢ニ松竹梅 花卸ニ雲鶴 中鉢ニ竹ニ雀 小鉢ニ山水 同扇ニキク  喜  平

   熨斗   

小鉢ニ鉄仙 同牡丹持枝 中鉢ニ人形 小鉢ニ梅ニ鶯 同ぼたん唐草         久兵衛 

           大こんかたげ

同雲輪ニ水仙 同竹 茶漬ニ松竹梅 同水仙 右書立絵だみ

   筋引之事

茶漬ニ萩ニ蝶 唐木絵 きくニ茅 山水                    伊勢吉

   若殿様被為遊候御絵之事

鉢ニ竹 鉢ニ苅田ニ鷺ニ鷹 鉢ニ三日月 鉢ニ帆かけ舟 茶漬茶碗ニ山水    

同蝶 蜻蛉 こおろぎ

 

天保8年の田原正憲家文書は須恵皿山の窮乏が記録され、経済的悪化が生活にまで及んでいることが推測できる。

須恵皿山に関しては、依然として低迷傾向にあったと推定できるが、このような状態の

 上下須恵村(筑前名所図会) 若杉山の山麓に窯が見える。眼科名医 田原養全 岡正節の家も見える中、弘化4年、福岡藩は西欧諸国における近代産業の勃興を感じ取り、

科学的実験施設である藩精錬所を博多中島町南新地に新設した。製陶に関しては実験場は福岡市南区野間におかれたとされ、同様に新しい技術を探る科学的アプローチがなされている。

製陶に関してはどのような範疇で実験を受けたか、詳述するものが確認できないが、磁器技術の実験も含まれていたと考えられる。須恵焼もその対象となっていたとされる。

嘉永1年の田原正憲家文書中に皿山永続之道ニ相成候と申茂…と困窮しながらも皿山仕組は継続されたことが記録されている。

 以下の文書は須恵皿山本窯一回分の焼成費用の見積もりである。安政2年のものとされ、この時代の本窯の焼成費用がわかる。筑前国続風土記拾遺に本登の焼成室が22室とされているので、この規模での焼成費用と考えられる。

 

[上須恵皿山焼物一ト達焼之仕入銭積之代(カ)](後筆)

    [焼物代指共左之通](後筆)

    

  壱達分仕入、左之通

 

一大束    四拾はく 但、壱撰三百本 代六銭三貫二百目 壱本ニ付壱文六歩宛

一松葉    千抱(「把」ノ誤カ)  代弐百五拾目 壱わニ付弐分五厘宛

一素焼      薪 四拾軒分 代壱貫弐百八拾目 壱軒ニ付三拾弐匁宛

一天草石    弐万斤 代壱貫五百目 百斤ニ付六分宛

一絵薬    弐拾斤 代壱貫五百目  

一柞皮灰  三拾弐石五斗 代壱貫五百目 壱石ニ付四十六匁宛

一細工人 手間   八百九拾五人 代弐貫九百八拾三匁 壱人ニ付二百文 

一絵書人 手間   八百人 喰出ニ而三匁五分宛 代弐貫六百六拾六匁

一細工人・絵書 賄     但シ 壱人ニ付九十文 代弐貫四百五拾目

一土  ち  四万五千斤 代六百目 百斤ニ付八十文宛                    

一土拵      三百人手間 代壱貫目 壱人ニ付弐百文宛

一竈焚賃    代弐百五拾目 一木出し 代四拾五匁  

一素焼焚賃      代百弐拾目

一素焼積上共ニ    代三百目 

一茶碗水掛賃    代弐百目

一上薬こし 五拾人手間     代弐百弐拾目    壱人ニ付四匁宛

一絵薬摺立賃 壱人ニ付二百文宛 代百目      一竈積込  百五拾人手間    代六百目 壱人ニ付四匁宛

一薬掛・薬引    百五拾人   代六百目 壱人ニ付四匁宛

一竈修覆      代六百目 

一碓  手入    代六百目  

一竈拵    代三百目 

一火口かま 松木・大束共ニ 代百弐匁六分

 

  〆   弐拾弐貫六百六拾六匁六分  此金二百両

 

一竈秡高

    五千本    但 壱本ニ付 六匁五分 代三拾弐貫五百目

           抜壱本ニ付 五十文 丼 壱ツ 百弐拾八文 素焼碗    八ツ  

                         

                    

八掛ニて 弐拾六〆目 此内二百両仕入分

五拾六文 汁同 八ツ九拾六文 茶呑同 八ツ六拾文 小茶付同 四ツ

 ニ〆      六銭三〆五百三拾五匁 〆  三〆三百三拾三匁 

(安政2年)

   

須恵焼の製品については現存するものが少なく、論評できないが、文政13年の記録は、若殿用に準備されたものであるが、ここに記録される製品類に加えて、民衆用の皿・茶碗類が量産されたと考えられる。この他に弘化5年の田原正憲家文書に御用薬茶碗の記載があるのみで、この時代と確定された製品は天保9年の瓶子型徳利と箱書きに筑前焼と書かれた染付の小皿のみで、現時点で製品の一般的傾向をはかることは困難である。須恵焼の陶工としては門七・伊三太・久七・半右衛門・宗助・善五郎・伊三郎・実次・勝兵衛・貞平・国吉・喜平・久平・伊勢吉(小山田)伊太夫(皿山保正)等が地方文書中に確認できる。陶工の移動については上須恵の陶工五郎七が天保3年(1832)に津軽へ渡り、津軽藩下での磁器製陶に指導的役割で参画。筑前へ帰国することなく弘化4年(1847)に現在の弘前市で没す。津軽の磁器窯は下川原焼と呼ばれる。五郎七が渡奥した背景であるが、まず官窯から民窯に移行した期間であり、須恵焼自体は沈滞していた時代であること。推測であるが五郎七は上須恵の陶工ではなく肥前の陶工と考えられること。上須恵の陶工と考えると、福岡藩は自国須恵焼の技術を保持する陶工に出国許可を出すことはありえないと考えられる。また肥前以外の陶工の関連が須恵焼の窯場では考えられない。加えてこの期間、地方文書に見られる陶工に五郎七の名が一切確認できないし、文書の残存状況から、製陶指導に出向技術を持つものが一切確認できないことも不自然である点で、肥前陶工の可能性を指摘できると考える。更に五郎七は磁器焼成及び製陶の指導ができる技術者であることが条件の人物である。肥前陶工として関与していた五郎七は、民窯に移行した文政12年から数年の後、須恵皿山で役割を失ない、天保3年に彼の技術を求められて、渡奥することとなったと推測している。津軽藩は国産の磁器を作るために、諸国の情報を持つ芦屋の船師関屋彦右衛門及び薩摩屋吉平に磁器技術者の手配を依頼し、筑前で五郎七を見つけると共に津軽へ紹介した。砥部焼の信吉の場合と同様、五郎七も肥前陶工を隠して津軽へ渡ったと考える。 

ほかに山口県豊浦郡豊北町にあった田耕原窯に関連する近世文書に安政1年、安政3年と上須恵の陶工秋枝勇吉の記載がある。恐らく磁器焼成に関連して出向したと推測される。慶応1年に勇吉は田耕原窯を離職している。

                                                  

4 第二期 須恵皿山役所時代  安政 7 年( 1860 )~明治 3年( 1870 )  11 年間

 

地元陶工達によってなんとか継続されていた須恵焼も、安政の末年(安政7年として1860)、藩の近代政策の一環に取り上げられた。藩は、文政12年に廃止した須恵皿山役所を再興し、須恵焼史中最大の技術導入を図った。藩主は11代黒田長溥で、このことは藩の資金を積極的に投入して、産業としての須恵焼の興隆を計ったと考えてよい。また第一期の須恵皿山役所時代の経営・生産内容とは異なっていると考えられ、第二期は殖産興業の一環として近代的経営を基礎とした生産体勢を敷いて実施された。資本投下も最大規模でなされている。しかしながら幕藩体勢の崩壊で10年余りしかその生産体制は継続しなかった。この期間の主な事象を記録する。

 

1 安政末年(7年)(1860) 須恵皿山役所 再興 第二期須恵皿山役所時代の開始

 近代的 殖産興業の一環としての須恵焼「都久志」第五号

2 万延1年(1860) 陶・画工の招聘 「都久志」第五号

3 文久2年(1862) 野間焼須恵皿山役所に所属(安政3年野間皿山開窯)

 「鑑定備考 日本陶器全書」

4 明治3年(1870) 須恵皿山役所の閉鎖(廃止) 「都久志」第五号

 

 この期間を記録する史料は、昭和7年から10年のもので、最初にこの時代を記録した「都久志」第五号の記載を踏襲するもので、須恵焼の研究家許斐友次郎が記述したものである。

他資料との比較ができないので、今後この記載の裏付をとりながら内容確認の必要がある。以下「都久志」第五号、関連部分を抜粋する。

 

都久志 第五号 昭和七

 

「然る変遷を経たる須恵窯は、又々復興気分が台頭した。それは嘉永安政年間藩主黒田長溥侯の統治時代である。長溥公は早くより海外文化の価値を充分に認識せられ、且時勢の推移を達観せられ、欧米文明の採取に務め、藩内多数有為の士を選抜して長崎に派し、各部門に別ちて夫々外国人に就き専門的に研究せられた。又国富の基礎は殖産興業にありとし博多中島町南新地(今の東中洲)に反射炉を建設し、精錬所を設け、各種理化学の研究に従事せしめられた。一方殖産工(ママ)業の起業に便し、藩主の信任最も厚く、藩の重職にあった吉永源八郎を総裁に挙げ、宗像郡大島在番頭野田勘之丞を抜擢して主任となし、起業の奨励と生産品の国外販路の拡張に、鋭意努力せしめ、公自からも進んで陣頭に立たれると云ふ程の熱心さであったから、須恵焼もその事業の一としてまた復興するの時運に恵まれ、大々的に好転し来つた。そこで、藩庁に於ては安政の末年、新たに須恵皿山役所と称する専門の役所を開設し、山田藤作を奉行とし、吟味役には佐藤新造を選任して須恵窯の復旧に勉め、中洲精錬所を利用して原石の分析を行ひ、品位の向上に努力した。一方職工としては、当時の高取焼の名工を初め、その頃博多に於ける彫刻の名工牧牛軒中村利治の門人で、櫛孫と称し根付の名人松下音満、及び筑前米改良の急先鋒で、所謂弾正縄の考案者として知られ、又余技として彫刻で有名なる中村利満と共に彫塑を学び、殊に四代正木宗七と親交厚く、博多人形製作の祖であると伝えられる、博多祇園町の中ノ子吉兵衛などを派し、試窯を試み、画師としては郷土の画伯村田東圃村田秋江をして絵付をなさしめ、尚大塚仁八に絵付手伝を命じ、職工見習岩隈某を始め、用達方として糀屋吉兵衛を送りて好果を修め、愈愈大量生産の基礎が確立するに至った。かくて、万延元年に至り、京都よりは有名なる陶工澤田舜山、絵師芳蔵、尾張瀬戸よりは磁法の老練者吉田岸太郎(加藤岸太郎ヵ)、画師左吉、其他肥前系統よりは、数百余名の職工と陶工画師を迎え、水車約四十余台を設備し、殊に皿山切手[註2]などの通貨までも発行して大いに資力の充実を計り、盛んに産出し、製品は原料の精選と名工画師の優越なる技工と相待って、筑前名産須恵焼の声名は殆ど全国に宣揚せられたのであった。」 

 

(文中に近世文書判読文があり瀬戸との関連を示している。年号が不明であるが加藤岸太郎が瀬戸に帰郷した元治2年(1865)から須恵皿山役所が廃止になる明治3年までの間と推定できる。)

 

一筆申入候然者貴殿事暫旅行職業筋に遥々上達いたし居可申中の番善右衛門便に伝言之趣も致承知其上父勘三え指下之焼物致拝見相悦居候事に候然るに当年七月初にて往来日切に相成役場御用筋も永く滞留いたし居候而は指支筋も有之父甚三儀も貴殿帰国を待兼居候得者旁々往来日切に不相成前廣に帰国に相成度就ては大坂蔵屋舗御銀方清水善蔵に委細頼遣置候間出大坂候折々之旅用は取替可相渡に付尾張 大坂迄之旅用は前広操合用意之上出立有之度尚皿山竈人とも岸太郎頼越之五島石天草石今便指送候に付此代料を以て大坂迄の旅用足に為仕候而も宜敷候條彼是之趣承知可有之候此段申入候

                              須恵皿山役所 (印)

尾州瀬戸村 加藤岸太郎ニ而 嘉助 殿 尚岸太郎 頼越の五島石天草石口木此節船便に差登候積に候 

 

また須恵焼の販路について「かくて、製出されて磁器は官窯であった関係から、払下制度の許に、商人によりて各地に販売せられてゐたから、自然国外販売の進出も亦必要であった。然るに此の時下関竹崎町に住し、各国勤王家の間に介在して大いに便宜を与え、後御贈位の恩典に浴した実業家の白石正一郎なる人があり、黒田家の用達たらんことを志し、薩摩の人にして筑前に亡命してゐた工藤左門を介して、精錬所総裁吉永源八郎に申込んだから、此の白石正一郎に須恵山製品の販売を許可した。そこで白石正一郎は万延元年二月十四日下関竹崎町に支店を開設し、その販売に従事した。当時白石方にかくれていた筑前勤王家の巨頭平野次郎国臣をして此の店務を管理せしめたが、日ならずして平野二郎は生野の旗揚げに参加のため、出発したとの逸話も伝えのこされてゐる。」と記録している。

更に製品については「黒田長溥公時代は官窯ではあるが、殖産興業を趣旨としたのであるから、藩邸用は勿論、進物用として精品が作り出され、須恵焼中全盛時代とも言ふべきであった。職工も京都瀬戸肥前等の手法を網羅し材料を選び品質を精選せられたので、その製品の優良なることは、想像にかたくない。製作品は煎茶用水指茶瓶茶椀を初め、抹茶水差茶椀花瓶香合食器向付蓋茶椀菓子鉢徳利植木鉢大鉢など産出され、銘は須惠と書かれ、稀に小判形の内に須惠と書いたものもある。また成化年製宣徳年製また永楽年製嘉靖年製と款し、また祥瑞風や阿蘭陀写しのものがある。絵付は専門の絵師の手によりて描かれ、白磁の精美と阿蘭陀写水注           染付原料の優良と相待って、実に見事である。試窯時代には、中ノ子吉兵衛の手により、五月の兜人形などが作られ、向付などの絵付けは、村田東圃、村田秋江両画伯によりて行なわれ、実に清新の気がみなぎってゐる。」と書かれている。

陶工については皿山方として明治1年まで勤務した村山幸兵衛もいた。

製品について補足すると、伊万里製品の影響は勿論、平戸三川内焼、瀬戸焼、博多人形の影響に明・清の模倣など多岐にわたっている。また絵付の技術については、技巧的に優れたものが認められる反面、軸物などの絵師の筆法で絵付けた山水の染付などもあり、多角的な生産を行なっていたことが分かる。

また販売店については福岡大工町の銀会所の隣が須恵焼の販売店であったとされる。

 

5 明治期民窯時代            明治3年( 1870 )~明治 35 年( 1902 )  33 年間 

 

明治期は全て民間資金による経営となる。藩窯の廃止後、直ちに払下げを受けた井上伊作は陶工松永吉蔵を職人の棟梁として生産開始するが、約3年で経営が破綻する。

明治12年には創始者と同名の新藤安平が生産に参画するが、これもその後の状況を記録するものがなく、実体を把握できない。

明治19年若しくは20年になると、株式組織を起して経営する須恵陶器会社が起される。近代須恵村の発足に合わせた起業であったが、数年で行き詰まる。この期間は特色のある期間で、多くの記念的製品が焼出されるとともに、金錆染付という特色ある磁器が焼かれた。当時の新聞には金錆製品が好評であることを掲載されているが、一時的好評を持ちながら、有田や瀬戸、砥部などの製品を凌ぐことができなかったと考えられる。

資料の信憑度を確認できないが、明治30年に須恵陶器会社時代に参画していた玉ノ井騰一郎が再度生産を企てるが、これも数年で廃止に至ったとされる。

このまま地元に定住する陶工の家系で焼成は継続されて行くことが推測されるが、これも昭和54年、須恵町佐谷在住の故合屋忠三郎氏に対する聞き取り調査では明治35年頃が完全廃窯になった時代ではないかと語っている。明治期の主な流れを記録する。

 

1 明治3年(1870) 明治最初の民窯 井上伊作 松永吉蔵  三年程継続ヵ  都久志第5号

2 明治12年(1879) 新藤安平 須恵焼生産に参画 日本近世窯業誌

3 明治19年(1886) 須恵陶器会社の設立(株式組織) 4~5年継続ヵ  初代村長からの聞取

4 明治30年(1897) 玉ノ井騰一郎時代ヵ    数年で廃止 都久志第5号

5 明治35年(1902) 完全廃窯  合屋忠三郎からの聞取

                                                                                          

明治最初の起業は前記のとおりである。陶工の棟梁として松永吉蔵があげられているが、吉蔵について記録しておく。

松永吉蔵については上須恵通称南米里の墓地に須恵特産の青石で作られた松永吉右衛門の墓標がある。松永吉蔵の父の墓とされる。この被葬者は上須恵高宮の山内家により守られていたが、その末孫は不明であった。その後、須恵町の歴史民俗資料館の調査で吉蔵の末孫が判明した。吉蔵については 平戸領木原山佐賀県藤津郡久間村(志田焼:塩田町)を経て現熊本県本渡市(天草)で大正7年に没したことが分かった。

一方肥前陶磁史考には木原山轆轤の名工で、筑前上須恵の出身と記録されている。しかし上須恵側に松永姓はなく、前記の墓地にも墓標4基しか確認できないので少なくとも土着の家系ではないと考えられる。このことから肥前陶磁史考の記録は、筑前上須恵から移住した陶工と解釈すべきであろう。

吉蔵の製品は須恵町の文化財に指定されている上須恵南米里山王宮の飯盛鉢 神器一対

がある。明治3年のもので創業を記念して、山王宮に奉献されたものであろう。

須恵焼のなかに「吉」の高台銘をもつものがあるが、これを吉蔵の製品とみなす研究者もあるが確認されていない。明治3年に、藩政時代の設備を利用して発足したが、3年を出ずして廃止となった。この期間の製品は僅かこの神器しかなく製品の傾向などは今のところ全く分からない。

「日本近世窯業史」に明治12年、創始者と同名の新藤安平が家業を開くと記録されている。これについては明治13年の田原貞敏家文書に、上須恵外三区の区長新藤安平の表記があり、新藤安平がこの時点で存在していたことは間違いないと考えられる。したがって須恵焼の業務に参画する可能性は肯定できる。しかしながらこの文書は、須恵焼のことを記したものではなく、安平が須恵焼に関連した内容の資料が見つかれば確認できる。

明治19年に糟屋郡長の誘導により、田原精一・田原養全・玉ノ井騰一郎、その他福博の商売人20名の株式組織となすと記録されるように、須恵焼は株式組織の経営体制が敷かれる。明治20年創業説もある。田原精一は明治22年の村政施行の時に初代村長となる人物である。田原養全は筑前上須恵の眼科医で筑前福岡(黒田)藩御殿医の家系である。玉ノ井は同藩の御用商人で甘木の出身である。福岡藩が経営していた筑前須恵焼の復興を、近代政治の胎動期であるこの時点に企てたと推測できる。

近代須恵村の発足は明治22年4月で、旧表糟屋郡佐谷村・上須恵村・須恵村・新原村・植木村・旅石村、6ヵ村が合併したものであった。

この間のことについて、明治21年の福陵新報は9月19日、10月10日、12月12日と須恵焼の記事を掲載している。

9月19日分は玉ノ井騰一郎が博多妙楽寺町に販売店を設け、中国漢江への輸出もなされたことが書かれている。10月10日の分には金錆焼のことが掲載されており、好評で増産が間に合わぬこと、窯の増築中であることなどが掲載されている。更に神戸某商館の英人モリソンが玉ノ井商店にて金錆焼の商取引を行なったことについても記載がある。

このように新聞上では順調な経営が伺われるが、明治23~24年には廃止になった。更に約1年半ほどでその経営も失敗した。明治19年以降のことは福陵新報の記事内容以外は、明治37年に初代村長田原精一からの聞書で複数資料からの裏付けはとれていない。

主力製品は金錆染付で、当初はもの珍しさもあり順調に売れていたが、数年で行き詰まった背景は、商品販売の伸び悩みが原因と考えられる。

その後明治30年に再び、玉ノ井騰一郎が興したとする記録があるが、これも裏付ける資料がなく確認できない。

須恵焼の最終末であるが、当時須恵町佐谷永原在住の合屋源助が皿山で焼いていたが、明治35年頃に完全に窯が使用されなくなったと聞き取っている。廃止の原因として製品の売れ行き不振はもちろんであるが、窯の燃料である松材が高騰したことも原因と伝えられる。明治23年に海軍が管轄する国営炭鉱須恵町新原に開坑し、坑木として松材の需用が高まった理由による。

製品について『都久志 第5号』には、「井上伊作は大衆向きの雑具を作り、また金錆釉を掛けたものが多く、山水などの絵付けの上に釉薬を施している。玉ノ井時代は、総て金錆釉のみで雑品を製出し、銘は須恵と染付け、また小判形の中に須恵と書いているものもある。

尚原土については、須恵皿山より出る陶土(註2)と、皿山より西数町を隔てたる所にある石(註3)を粉砕して製作され、それに五島石・天草石を混合し、白磁としては最良の原料であった。釉薬の金錆薬は、同様皿山の北方(註4)より採取したるものであるといわれている。」と記載される。

陶器会社時代の製品 染付の手法で、呉須絵付けの上に、透明釉薬を掛ける代りに、金錆釉を施した金錆染付の製品が多産されている。この期間である明治22年は町村制施行の年で、新しい須恵村の誕生を記念して焼かれた製品を見ることができる。実際の金錆染付製品は、花瓶・風炉・沈香壷・茶碗・丼等が見られ、当時玉ノ井が出した広告には、金錆染付製品の外に洋食器・コーヒーセットなども加わり注文に応じた製品を作ることができると記されている。また金錆染付製品を主力に広告し、いわゆる呉須による染付製品も注文に応じることができると付記してある。

終末期の製品は質の悪い呉須や通称ベロ藍と言われるコバルト絵付薬を使用していて、成形もきわめて雑である。染付の絵についても、帆掛舟・海・島・松・東屋を配して描かれた皿や葡萄文や松竹梅文が絵付けられた皿など乱雑で鈍化した絵付けの製品群を終末期のものであると推測している。尚この一群のものと殆ど同様の雑器類が、宇美町障子岳の磁器窯で焼かれている。この窯は磁器を焼いており、明治期の窯と推定できるが、明治期の中での年代特定はできない。 

最後に連房式登窯について報告する。筑前国続風土記附録(須恵皿山)陶器所之図に当時の小字名で平原(ひらばる)に1基、東原伊勢山(とうばるいせやま)本窯及び試験窯各1基の合計3基が確認され、いずれの窯も遺構の確認はなされている。平原の窯は築窯年も廃窯年も不明であるが、築窯年は寛政11年以前(筑前国続風土記附録絵図に描かれていることを根拠とする。)、廃窯年は敢えて推測すれば文政12年と推定している。第1期藩窯の閉鎖年で皿山仕組運用が破綻した年である。

これに加えて、明治19年に起された須恵陶器会社の窯は、現在本窯上部に焚口部を残しているもので、最終的窯とみなしている。従ってこの窯の最後は明治35年頃である。窯の構造は上部に向ってやや末広がりに構築されていて、築窯年は須恵陶器会社の設立年の公算が高い。

本窯の築窯については宝暦14年は間違いない。また本窯に関して、明治3年、藩窯の終了で一応の終止符が打たれたと推測する。正確な本窯の規模は発掘調査で明らかになると思うが、磁器窯中でも最大級のものであろう。小資本でこの窯を維持することは困難と考えられる。ただし部分的使用は可能であったと思われるので、明治最初の須恵焼の窯として引き継がれたと見てよいだろう。

地元の聞取調査で、現在の通称上須恵皿山地区に「うらんたん」(裏の谷をこのように発音)と言う地名の場所に、もう1基窯があったと聞取っている。その場所で多くの磁器片やハマ・トチン等の窯道具が表採された。磁器片は殆どがコバルト色のつよい煩雑な絵付で、終末期の製品と考えられるので、窯も明治の窯といる。

明和4年(1767)窯1基 焼成室18間(近国焼物山大概帳)、寛政8年(1796)窯2基 焼成室31室(近国焼物山大概帳)、文化1年(1804)焼成室41室(福岡藩民政誌略)、文政8年(1825)窯2基 本登焼成室22室 新登13室[註5](筑前国続風土記拾遺)と経年変化が見られるが、同一資料からの記録ではなく、それぞれの内容が確認できない。

    

おわりに

 

須恵焼の位置付は、肥前の技術を導入して発足した筑前福岡の磁器窯で焼出されたものである。稼動期間は宝暦14年から明治35年頃までで、約140年継続した筑前最大の窯である。

製品の特色は初期より肥前技術の影響下にあり、安政7年に始まる第2期須恵皿山役所時代に、肥前・京都・瀬戸の技術、またオランダ写や中国明・清の古染付や祥瑞などの模倣や博多人形の成型法などを取り入れて製品を焼成している。明治3年まで、わずか10年余りの期間の製品で、他窯技術の導入を試みた限りで、オリジナル製品の開発までには至らなかったようだ。

明治期は唯一特色ある製品を焼出している。金錆染付(きんさびそめつけ)の製品である。染付に錆釉を掛けた技法自体は肥前にあったが、金錆染付はその錆釉を応用したもので、いわゆる錆釉に比べて薄い黄褐色に焼きあがる。また見る角度で黄金色に見えることで独特の質感を持つものである。また染付では青色に発色する絵は、金錆染付では暗緑色に発色し、呉須による染付とは異なる印象となる。しかしながらこの製品は明治期のわずかな期間に焼かれたもと推測され継続的に焼かれていたものではない。

次ぎに肥前における最高技術の製品、例えば鍋島焼や柿右衛門などの製品と須恵焼を比較すると、須恵焼の創始以前に肥前では卓越した成形・絵付の技術が確立されており、維持されていた。また須恵焼の製品全般に関して、肥前で確立された成形や技法が踏襲されており、当然肥前製品以降のものに応用されたと解釈できる。

肥前以外のほとんどの磁器窯がこのような傾向を見ることができるので、須恵焼に限らず、一般論として伊万里ものとして流通する肥前磁器製品の生産時以降に、その様式を模倣した肥前以外の磁器窯製品に反映されていくことになる。例えば飯碗などを例にとると成形・絵付共に伊万里の模倣がなされている。肥前以外の磁器窯において肥前陶工の関与が指摘されると同時に諸国に流通する伊万里製品を手本に使ったと考えられる。

技術を比較する意味で、須恵焼の製品は同時代の肥前製品を凌ぐことはなかった。これについて寛政8年の「近国焼物山大概帳」は須恵焼を南京焼(磁器)の中品と評しているが、適性な評価といえる。

一方経営的見地で須恵焼を見た場合、特に文化初年以降第2期須恵皿山役所時代以前までの期間、経営は良い状態ではなかった。須恵焼が売れなかったということである。藩の経済的疲弊もその要因と考えられるが、いずれにしても製品が売れなければ当然経営は困難となる。更に生産体制は最大時にわずか2基の登窯で焼成していたに過ぎず、肥前製品には対抗できなかった。

前述の寛政8年「近国焼物山大概帳」判読文に記録されている生産規模を比較すると、有田内皿山・外皿山だけで、22ヶ所の窯場と765の焼成室を持っており、これに対して須恵皿山はわずかに2基の登窯と31の焼成室しか保持していなかった。

この差を見る限り、須恵焼は肥前の資本力と生産力に及ぶものではなかった。

価格・技術・生産コスト・製品の品質など、どの点を比較しても対抗できるものでないことは明白であることが分かる。

このように見ると筑前福岡藩窯須恵焼の劣勢が強調されるようであるが、肥前に比較しての評価で、肥前以外の諸磁器窯と比較すれば決して劣るものではない。また筑前福岡藩窯としての対面もあり、特に藩窯期における技術面の試行錯誤は積極的な取り組みと解釈できるし、寛政期の須恵皿山の絵図を見ると、肥前大河内山窯場と規模こそ違うものの極めて良く似た施設の配置となっている。このような図面を見ると藩の統制を受けている施設であることが明確に読み取れ、その取り組みも正式なものであったことが読み取れる。

過去20数年で集積された近世・近代文書と文献また聞き取り調査から論考した須恵焼である。今後最も期待されるのは窯跡及びその周辺の学術的発掘調査である。この成果は史資料を裏付けるものが期待できるし、その空白部分を埋める実物資料も期待できる。

同じ福岡県内で磁器を焼成した窯は、久留米市に朝妻焼・東屋亭焼、朝倉郡浮羽町に朝田焼、八女郡立花町に男ノ子焼(極少数の磁器を焼成)、大牟田市に黒崎焼、田川郡大任町の田香焼などに磁器が見られるし、最も古い分としては北九州市にある細川氏の御庭窯とされる菜園場窯からも磁器が検出されている。須恵焼の終焉から奇しくも今年でちょうど100年に当たる。肥前で確立された磁器の流れが江戸期半ば以降に大きな影響を及ぼして行くが、筑前やその近辺の磁器生産の痕跡もその流れの中で位置付して行く必要がある。

  

     福岡県糟屋郡須恵町上須恵 須恵町立歴史民俗資料館 学芸員 高山慶太郎

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