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筑前の磁器 須恵焼 年表 須恵町歴史民俗資料館    Ver. 050302

                      1994 平成 4年 First Version

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                      811-2114

                       日本国福岡県糟屋郡須惠町上須惠21*3

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                                 高山慶太郎 編集


1630 寛永 7年庚午 白旗山高取焼窯 これより32~3年間焼成と記録さる。白旗山高取窯 窯道具に磁器片 付着。磁器焼成の可能性。
1667 寛文 7年丁未 上座郡鼓村 鼓窯 続風土記 土産考 寛文5年~元禄17年説(続風土記附録)寛文7(続 風土記)より上座郡鼓村で製す。
1670 寛文10年庚戌 寛文10年(続風土記)国君高取の陶工を遣わす。
1682 天和 2年壬戌 中野焼の開窯 中野瓷器  上座郡小石原村枝村中野 磁器焼成(中野上の原古窯)  上座郡小石原村の南、中野と云所にて、国君光之公陶器を作らしむ。是は肥前松浦郡 伊万里の陶工来り伝ふ。大明の製法にならへる也。其製猶いまた精巧ならすといへと も、甚民用に便あり。肥前より職工を聘し官業をもって支那明代の青華磁器の模造に 従事せしめられ、大いに成果を上げていた。然るに星移り物変わりて、その後遂に敗 滅に帰した。此れが筑前最初の磁器窯である。
五島陶石 五島陶石肥前領(現長崎県南松浦郡富江町田尾) ・・・焼物土石並薬石・ ・・右之品々他領江出す間敷由…
1684 貞享 1684→1688 中野焼 貞享中、皿山奉行を設けて藩用とし・・・
1688 元禄1年戊辰 筑前国続風土記 着手 元禄16年 編成  宝永 6年(1709) 完成
1704 元禄17年甲申 元禄17年の春、陶師某博多に居を移し、早良郡田島村の内六反間にても陶製せり。 (続風土記) 鷹取八蔵・・六反・大鋸谷にて焼成。(附録)  田島村の東の松山
1712 宝永 5年戊子 東皿山高取窯開窯 東皿山開窯 上座郡鼓村 宝永5年の春より陶工高取・五十嵐2人を 移して陶器を製せしめらる。
1708 正徳 2年壬辰 佐賀 塩田 陶土業開始。
1714 正徳 4年甲午 朝妻焼 先君命ありて御井郡朝妻の地に於て陶器を製し遠近に売さばく・・・
1718 享保 3年戊戌 西皿山高取窯開窯 享保3年上座郡小石原村に居住せし陶工数人招かせられ、民用の 陶器を製造せり。此処を土俗西皿山と言う。
中野焼 其盛大を期しければ、即ち中野の焼物を停止せしめ、同地の製造者にして麁 原村の陶器所に移住せんと欲するものは、之を許可して移転料を下附せり。
1728 享保13年戊申 朝妻焼 久留米藩が関与する朝妻焼の終末か・・・
1732 享保17年壬子 肥後天草郡下津深江村 肥前大村領三ツ又焼物師共、による(磁器)焼成開始・・・
1733 享保18年癸丑 安平は、新藤家に養子として迎え入れられ、この年に家督を相続。その後は福岡藩町 方附として32年間勤める。(福岡藩)
1735 享保末20乙卯 中野焼 天和中よりの陶製ハ止て、享保の末より高取焼にならひて民用に便する磁器 を製せり。麁工なり。今、陶家八戸、竈3所にあり。
1751 宝暦 1年辛未 須恵焼開窯準備  宝暦の初年、須恵村の内、金山間掘と云所有。又近村の諸山にて 農夫等石炭を多くほり出しけるに、その掘り揚置きたる土の中に陶器に用いてよき白 土あり。是をもつて西皿山(早良郡麁原山)陶工を招寄、試に陶するに其製よからす。 故に相知れる者一人をゑらひ費用をあたへ彼の白土を携へ肥前国佐賀領南河原山の陶 家に遣し、其法を習はしむ。其者60余日逗留して焼物の秘法を学ひ得て、もろもろの 器物を焼出し携へ帰りぬ。しかりといえとも、安平微賎の身にて最初に陶工を起こせ し時・…
安平常常覚悟仕候ハ、為忠孝相働、生涯之中何卒後代迄微吊ヲ残候仕置度存図[ママ  念 カ]候由、然者此御大国押立候御国産無御坐候条、様々工夫仕候得共、 御為宜儀ハ下交易悪ク、下宜義ハ御益筋無、就右、南京焼物仕組之義ハ金山同様之儀 ニ存候得共、財用乏御坐候而ハ始終難仕遂、殊往昔南京焼ニ相成候土之儀御国中御詮 義茂御坐候得共、決而無御坐趣ヲ茂伝承仕居申候由、旁容易ニ難仕組奉存罷在候処
1758 宝暦 8年戊寅 宝暦戊寅八年、須恵村於蓬谷、金山間堀仕候節、心掛居申候儀ニ付、若杉村堺石河原 ・尾中村道乗寺山ニ而焼物土詮議仕、尚又須恵邑・?木村・旅石村百性共石炭堀取候 節、土中より掘揚捨居申候白キ土見当、何程余分取候而茂百年弐百年ニ尽候儀御坐有 間舖、其上又又一里二里之所より茂、追追詮議可仕出存込候而、右之白キ土堀取罷帰、 先西皿山細工人相頼、試焼仕せ候得共、南京焼之仕法相分上申候間、肥州佐賀領南河 原山与申所江、身寄之者一人、古手売ニ仕立差越候、若土出所之儀、彼是相尋候ハバ、 唐津領より参候様ニ申置、可然段申附、内内銀子ヲ出、試焼相頼候処、六七拾日振、 茶碗・皿類宜出来仕、罷帰申候・…
1762 宝暦12年壬午 天草陶石の輸出。天草郡高浜村鷹巣山に陶山を始める。
宝暦14年甲申 須恵焼 窯築窯
就右、弥皿山仕組之儀存立、先町家之者三四人、出銀之義申談置、宝暦十四年甲申改 元之年(六月一二日から明和に改元)、表粕屋郡須恵邑東原伊勢山与申所、万事手都合 能見立申候間、趣意、横折口上書を以奉頼候処、御引渡ニ相成候、従是引切才判仕、 山所切開、人歩(夫カ)数多雇入、地引、竈築立、諸道具仕調、存知之外物入多、銀子 上足仕候間、無拠、先祖より持伝候諸道具・家屋敷迄売払、山処ニ入申候、是迄自分 才覚を以、兎哉角「取続《、出銀之者江 ハ焼物相渡、無滞差引相仕舞申候、其以後家 家・竈数等相増、旅人茂大勢召抱申候間、拝借之義奉頼、追追御仕入銀御渡被下、御 仕立焼物所ニ被仰付、段段御用蒙仰、江戸表御招請、御用焼物迄焼立差上申候、初発 より大勢之旅人召抱・…
南京焼の器物を製せんことを官に請けれは、則許容有て、同十四年此所に窯を築、土 木の料を与へ、白瓷の茶碗…
上須恵皿山窯跡木札 新藤安平常興
1764 明和 1年甲申 須恵皿山御用地 9月29日御渡、進藤七平次請持皿山御用地として、伊勢山(現上須恵 東原)に請持山として500坪の薪山(焼成窯用)の使用を認められる。(七平次は長平次 の誤りか)
1766 明和 3年丙戌 (須恵)皿山御用地 9月25日渡、進藤安兵衛 請持山
1767 明和 4年丁亥 天草上田家 近国焼物山大概書上 筑前領須恵皿山に天草陶石輸出している。 須恵 皿山 釜数凡二十八間 但壱登 地土ニ天草焼物土少々調合
明和 6年己丑 ?木道林寺誕生仏 台座銘 表 明和 6年 丑 4月 8日 施主 ?木村□ 裏 須恵皿 山 作者 森氏
肥後天草陶石 茶碗薬50斤願請始め。
1770 明和 7年庚寅 7月 上須恵・須恵村庄屋(軸帳調べにさいし)御仕立皿山場所には費田畠はなき旨申出。
1771 明和 8年辛卯 黒田継高夫人の館、江戸桜田邸に築造。贈物として、須恵焼花入れ2つ。
平賀源内 建白書により、天草石の上質が認められ深江産の陶土にて陶器(磁器)製出 せんことを請う。
明和年間 明和の頃、能古焼開窯。(天明開窯説もある。)
1774 安永 3年甲午 5月15日渡、(須恵)皿山御用地 新藤安兵衛請持 皿山御用地として宇美村障子岳に薪 山3万坪の使用を藩より認められる。
右ハ皿山御入用薪山ニ渡、右御証文ハ寺社奉行ニ当、後年皿山相止候節、御引上相成 候事
1776 安永 5年丙申 安平常興 7月5日 士官被仰付、 新藤安平 功労を賞し、士籍を得る。 窯跡木札には 陶正と記録されている。
砥部焼の創始 当時筑前上須恵より、信吉なるもの来り住せり・・・砥部焼の焼成良 好ならざるは、釉薬の上良なるによるとなし、翌安永6年10月中旬筑前国に至り、権 助より、釉薬用蚊田灰を得同12月10日新釉薬をもって窯焼をなし、焼成成功を収める。 ・その後筑前の陶工五三なども関与。
1777 安永 6年丁酉 新藤安平病没。その子長平父が遺跡を給ひ陶山の事を司らしめる。(誤 記)
砥部焼の創始 上須恵の藤枝信吉この年の末に、磁器砥部焼焼成成功に導く。
1781 天明 1年辛丑 能古焼の創始(説) 薬ハ天草ヨリ買入候。(明和開窯説あり。)
1783 天明 3年癸卯 新藤安平 5月17日御当用方ニ被為附、御用方御支配ニ相成、御城代組ニ被指加候。
1784 天明 4年甲辰 新藤安平 2月5日71歳ニ而勤死ス。  71歳 須恵皿山奉行の設置
第1期須恵皿山役所の開設。新藤長平(安平の嫡子)2月21日被召出、家督拝領・跡役 被仰付、須恵皿山奉行之役号ニ被仰出候也。
4月渡 (須恵皿山御用地 進藤安兵衛請持 山神ノ原 千坪(須恵)皿山御用地 進藤安兵 衛請持 東原 千百坪 但、此山天明4年辰年皿山御用地ニ相成、只今谷山住焼物細工人 屋敷ニ相成。
製品皿山忠市 銘 仏花器(佐谷永原 合屋栄一蔵)
1785 天明 5年乙巳 『表カスヤ』  就御尋 須恵皿山開基之事  新藤長平尚央(花押)
商物之儀ハ御国中之外、大坂・仙台・津軽・出羽・加賀金沢・越後新潟・甲州郡内・ 其外四国・中国近国・迄、専交易仕候事。
正月20日 新藤長平様支配の皿山所人数の吊物帳へ書込み記載の問合せ。
1785 天明 5年カ 新藤長平支配皿山所人数の覚。 17軒 人数 百人余。
1787 天明 7年丁未 神文誓紙之事 新藤長平 山路嘉左衛門
鉅島(能古島)・須恵両山への陶工の手配
1788 天明 8年戊申 12月 須恵皿山問屋 宮野市五郎より上府村庄屋(新宮町) 伝兵衛へ 口上之覚これによ り上須恵村御皿山奉行新藤長平は上府村(現新宮町上府)にて知行地をもっていたらし いことが判明。
1791 寛政 3年辛亥 砥部焼陶工 讃岐西願寺の大般若経寄進者署吊に藤枝信吉(上須恵の住人)の吊がある。
1796 寛政 8年丙辰 近国焼物大概帳 9月 天草郡高浜村焼物師 伝九郎 同村庄屋 上田源作 (島原大横目大 原甚五左御門様、御好ニ付認差上候控)筑前領皿山之分 須恵皿山 窯二登 地土ニ天草 土ヲ以南京焼之中品焼物出来福岡御直仕入山ニ而 知行頂戴之者壱人御扶持頂戴帯刀御 免之仁壱人 此数31間 (明和四年と比較)
讃岐富田窯 筑前賀治郡末村権平孫権助を雇う。
(香川県高松市)(糟屋郡須恵村)
1799 寛政11年戊午 筑前国続風土記 附録 完成   領内(筑前)で磁器を製するところ 小石原・漆尾村の内上黒田・麁原村の内残嶋等。附録土産考
須恵焼記載 今は司る吏二員ありて繁栄す。
1801 享和 1年辛酉 藩主皿山奉行を置きて、其事業を盛んにし、茶碗茶盒等を幕府に呈上し、他邦にも贈 らる。(須恵皿山奉行の設置年としては疑問、この年から須恵皿山奉行が置かれたと 解釈すれば、錯誤と考えられる。)
1804 文化 1年甲子 文化の初年は、竈41、水碓65を設け、陶人・画工聚りて、25戸一村をなし、其衆口を 併せて、150余人至る。只工夫を費すこと多ければ、高価ならざる事を得ざる故に、 広布するに至らず。
1805 文化 2年乙丑 須恵皿山役所より須恵竈焼豊七へ 山中□諸色売買一手に任せ運上申付る事・・・
1807 文化 4年丁卯 須恵目薬製薬鉢
1808 文化 5年戊辰 (須恵皿山役所から皿山仕組運用銀の調達がなされず)地元須恵村庄屋源太郎が文化5 年・6年と博多の豊後屋嘉助より仕組運用銀6銭20貫750目を借入れる。
1809 文化 6年己巳 須恵目薬製薬鉢
1810 文化 7年庚午 津軽下川原焼 上須恵陶工五郎七津軽へ製陶指導に出向。
1811 文化 8年辛未 加瀬丈兵衛(御用商人) 須恵皿山に対し六銭弐拾壱貫壱拾六匁四分壱厘出銀
1812 文化 9年壬申 黒田斉清参勤。御台所様へ須恵製の磁器を献上。
1813 文化10年癸酉 肥前 多久大山新窯開窯。
1814 文化11年甲戌 今其地を皿山と呼へり。両須恵の地雑居す。但上須恵に近。民居32戸、窯2所に在。本登22竈と云。
1 須賀神社祭祀器 戌ノ4月吉日 銘
2 染付雲龍文鉢(田原正憲家蔵)戌4月初 長澤氏 山泉画
筑前国続風土記拾遺 着手。
1816 文化13年丙子 春 村上弥太夫 須恵皿山奉行に着任
1817 文化14年丁丑 須恵皿山奉行 役料米 8俵宛
須恵皿山焼物所御仕入銀返弁の願い書
丑年12月(箱書)側金錆内染付唐草文 三揃鉢
1820 文政 3年庚辰 借用証文 借主沢七より庄屋(田原)源太郎へ 借金の返済は、見込年5回乃至4回の窯焼 の売上より返済の約束。4回の窯焼の売上より返済の約束。
1821 文政 4年辛巳 口上之覚(控)書状 上須恵庄屋源太郎より(須恵)皿山奉行 衣非安平・勝野藤太宛  須恵皿山御焼物所御仕入銀御仕法被下請願。窯焼代庄屋立替分の催促。
筑前吊所図会 一応の体裁(完成)  今に至りて陶戸繁昌し瓷窯の煙しけく、国産 の利を興したるは皆安平か遺功なり。
1822 文政 5年壬午 上須恵村 次六 借用中の焼物代上紊残銭は同人返弁困難に付、正文への奥書記載の 是非伺い。
加瀬丈兵衛 文化8年 須恵皿山役所に出銀した六銭弐拾壱貫壱拾六匁四分壱厘を寸 志として寄付
1823 文政 6年癸未 口上之覚(控)書状 上須恵庄屋源太郎より郡代役所 宛 窯焼代庄屋立替分の催促。文 政5年より文政12年までの分割明細が記される。
1825 文政 8年乙酉 表粕屋郡上須恵村二割屋弥助須恵皿山御仕組焼物代上紊銭年賦上紊借状帳
2月 拾遺に関する、表粕屋・那珂郡の廻村調査。
1826 文政 9年 借用仕銭証文之事
1828 文政11年戊子 霜月 吉祥日 上須恵皿山 小山田勝兵衛  現上須恵南米里山王宮へ瓶子型徳利奉寄進
1829 文政12年己丑 須恵皿山役所の廃止。皿山御仕組御取止ニ相成・・
口上之覚 上須恵皿山焼物頭取伊太夫よりー郡代役所へ今度の仕法替に付、大坂表で 売捌のため問屋との交渉をいたしたく、往来切手御渡しの願。
1830 文政13年(閏)庚寅 若殿様上須恵村御成達記録 黒田長溥須恵皿山を巡見。
口上之覚 上須恵村皿山組頭 門七 他8吊より御役所へ 伊三太 次男勝兵衛分家ニ付屋 敷地願のこと。
文政年間 須恵焼 文政年間、此の制を中廃して、復た各人の自営に帰したり。
土佐 能茶山(高知県)の磁器窯に筑前の庄吉雇わる。
文政中 博多瓦町に陶業を築き、須恵村の陶人を招き・・・
1832 天保  3年壬辰 筑前芦屋の旅行商人(たびゆきの商人で焼物も取り扱っている)関屋彦右衛門・薩摩 屋吉平ら瀬戸師筑前上須恵の五郎七を津軽藩へ指し下す。
1833 天保  4年癸巳 上須恵皿山本窯跡石塔 大乗妙典一字一石塔 干時天保第四癸巳2月5日常興之室志之嫡孫新藤利興営之
1836天保  7年丙申 (須恵)皿山御仕組御取止ニ相成・・(文政12年の須恵皿山廃止を記録した地方文書)
津軽下川原焼瀬戸座開設カ
1837 天保  8年丁酉 郡役所達 皿山中粮物差支のため拝借中の銭6貫文を触の仕向分に立用の是非・・問い合せ
瀬戸師 五郎七の記録 (上須恵の陶工)
1838 天保  9年戊戌 津軽下川原焼天保9年銘花瓶 白焼瀬戸座初御奉行 記吊の中に五郎七の吊あり。
1841 天保12年辛丑 島原領あいつ(長崎県南高来郡愛野町愛津)より須恵皿山へ陶工手伝いとして入村。
肥前国長嵜通記 伊豫大洲門田義明上須恵に立寄る。
1844 天保15年甲辰 小山田伊大夫繁明 67歳没 皿山保正(上須恵ニラガキ墓碑銘調査)
1847 弘化  4年丁未 博多中島町南新地に福岡藩精錬所が設置され、科学的製陶の研究が開始され、実験場は野間に作られた。
筑前 上須恵の陶工五郎七没 82歳 津軽  青森県弘前市本行寺 墓碑銘 得法常唱信士
1848 弘化  5年戊申 上須恵村庄屋源太郎より同村大庄屋正蔵へ 御用薬茶碗十五個の代銭九百文受取。
弘化年間 須恵・野間において陶器を製造・・・・・・・・
1848 嘉永  1年戊申 郡役所達 皿山永続之道ニ相成候と申茂・・・  皿山願書 添翰仰付之願
1854 安政  1年甲寅 上須恵陶工 勇吉 山口県豊北町田耕原窯へ出向。
1855 安政  2年乙卯 一窯焼物の見積。天草石の使用。
1856 安政  3年丙辰 須恵皿山 1年に5登(回)の焼成。
豊北町田耕原窯 上須恵陶工勇吉の記載。
筑前那珂郡野間村に野間焼開窯。京都の陶工佐々木與三を招き陶業を起こす。源土は同村柳河内に得る。
安政末年 第2期 須恵皿山奉行の開設 (江戸民窯期の終了)
1860 (安政 7年) 須恵皿山の再興。 山田藤作を奉行、佐藤新造を吟味役とし、中洲製錬所を利用し原 石の分析などを行う。黒田長溥は殖産興業の一環として須恵焼の復興を試み、須恵焼 史中最大の設備とする。
1860 万延  1年庚申 京都より陶工澤田舜山・絵師芳造、尾張瀬戸より磁法の老練者吉田(加藤カ)岸太郎・ 絵師佐吉、肥前系統よりは数百余吊の陶工・絵師を迎え、水車約40余台を設備し、 皿山切手などの発行をし充実を図る。
小山田伊大夫・小山田伊右衛門・小山田利造・中牟田卯右衛門・百田佐和七等その復 興に努め大いに画策する所ありしも十年を出ずして再衰退を来せり。実業家白石正一 郎、黒田家御用達となり、下関竹崎町に販売店を設く。この店は陶器などを販売し、 そこに平野二郎国臣が関連する。
金森甚助父嘉助。
1862 文久  2年壬戌 この頃野間焼、須恵皿山役所に付属。
1863 文久  3年癸亥  
文久年間 新原須恵焼 絵師 永利菊次郎(唐津より養子に入る。)
1864 元治  1年甲子 村田東圃の家に高杉晋作投宿。
1865 元治  2年乙丑 加藤岸太郎 瀬戸へ帰郷 九州よりかえりみまい
1865 慶応  1年乙丑 豊北町田耕原窯の勇吉 離職。
村山幸兵衛
1867 慶応  3年丁卯 須恵皿山の巡見。宇美八幡宮誌 七卿在西日誌
1870 明治  3年 藩政の廃止により須恵皿山役所の廃止
福岡橋口町井上伊作須恵焼窯場を継ぎ、松永吉蔵を棟梁として、再興努力したが、3 年を出ずして廃窯となる。
金森甚助父嘉助須恵焼の独立経営。
須恵陶製火盒文書
野間焼廃窯。
山王宮祭器  松永吉蔵銘。
黒田長溥侯より拝領  オランダ写水注
新藤茂 霊位 卒塔婆
幕藩体制廃止と廃窯 その後の明治期の窯のスタート。福岡橋口町井上伊作須恵焼窯 場を継ぎ、松永吉蔵を棟梁として再興努力したが3年を出ずして廃窯となる。
金森甚助父嘉助、須恵焼の独立経営。
新藤茂霊位 卒塔婆 須恵皿山窯跡。
野間焼の廃窯 野間焼は須恵皿山役所の管轄で、この役所の廃止を記したものか。
五島福江島陶石 田尾産皿石採掘に関する願書。
1871 明治 4年辛未 鍋島藩窯の御細工屋敷解散。
1875 明治 8年乙亥 須恵皿山 器類 5竈 十戸製
1877 明治10年丁丑 須恵焼はどびん・茶碗の類18万個、その価2千4百円也。須恵村竈所309坪。高取焼西 皿山は瓶・摺・盆・井樋・?木鉢の類2万5千個にして、総価額金8千4百4拾3円5拾6 銭なり。
野間焼 佐々木與三兵衛の帰京に際し、澤田舜山其跡を引受ける。
1879 明治12年己卯 新藤安平 再び家業を開き、同業者は計6吊となれり。
小山田秀雄記録 明治12年頃の須恵皿山見取図。
1880 明治13年甲辰 須恵村 正明校文書 粕屋郡長 権藤貫一 区長新藤安平
1886 明治19年丙戌 須恵村 田原精一(M22に初代村長)ヨリ聞取:付随資料 (粕屋)郡長の誘導により、田原 精一・田原養全・玉ノ井騰一郎その他福博の商売人20吊の株式組織となす。
1887 明治20年丁亥 田原精一ヨリ聞取:須恵の田原養全及び玉ノ井騰一郎両人、明治20年本窯最後の再興 を謀り・・・
1888 明治21年戊子 9月19日  福陵新報 金錆焼の記事。窯再興の時点か・・中国漢江への輸出。
10月10日福陵新報 金錆焼の記事。金錆焼が好評。
12月12日 福陵新報 金錆焼の記事。支那漢江楽善堂、中野次郎金錆製品購入。神戸商 館の英人モリソン氏による須恵焼の購入。
1889 明治22年己丑 市制及び町村制施行。初代村長 田原精一初代須恵村村長。
1890 明治23年庚寅 田原精一ヨリ聞取:田原精一・玉ノ井騰一郎、第3回博覧会(内国勧業博覧会)に須恵焼 を出品。
1891 明治24年辛卯 田原精一ヨリ聞取:明治19年の起窯、明治23~24年に廃窯、その後もなお一年、玉ノ 井騰一郎続行。
1892 明治25年壬辰 株式組織で再出発したが併窯。
澤田舜山 野間にて没。
1895 明治28年乙未 田原精一ヨリ聞取:田原精一・玉ノ井騰一郎、第4回博覧会(内国勧業博覧会)に須恵焼を出品。
明治20年代 筑前 筑後 豊前 懐中商家独案内中の広告
金錆製丼類大小、同鉢類大小、同煎茶道具一切、同洋食器一切、同花瓶類一切、同コ フヒー道具一切、同大平類一切、同茶漬茶碗一切、同手塩中皿類一切、同かんびん品 々、同御杯の類。右は白地にも焼立御印入又染ぬき等、お好み次第に調整致し前書の とおり日切にて調達候。
1897 明治30年丁酉 明治30年頃に至り、朝倉郡甘木町玉ノ井騰一郎又々起窯し、博多横町に売店を設け、 金錆釉の磁器を販売し、併せて京阪方面にも販路を開拓したが又々数年ならずして廃 窯に帰す。
1902 明治35年壬寅 須恵焼完全廃窯 合屋忠三郎 聞取 須恵町佐谷永原在住 合屋忠三郎父 源助がこの頃 まで本窯上部の新窯で焼いていた。終焉の原因は、薪材(松材:当地石炭産業の拡大で 消費された坑木)の高騰、肥前・瀬戸等の大生産地との販売競争に敗退したことなど が考えられる。
明治年間 現在の宇美町障子岳地区にこの期のものと考えられる窯跡がある。またこの地区には 薪と須恵焼を交換していたことが伝えられている。
1918 大正7年 2月25日 松永吉蔵 天草本度市馬場2004番地にて没。 嘉永4年2月8日生まれ。
大正頃 須恵川の水は豊富で、現在と異なり川で泳ぐことができたほど水量があった。(水碓 ・唐臼の可動)
昭和初期 現福岡市博多区呉?町付近の住人で、ハライソキチが京都で須恵焼の贋物を焼かせた。 主に茶陶で漢字銘『須恵』。この頃まで須恵焼(宇美で焼かれたものか)を販売してい た。(宇美町聞取)
甲?木切り通し付近より、錆薬(釉薬)の原土の採掘、搬出が行われ、天草などに粕屋 町原町駅より送り出されていた。(須恵町甲?木にて聞取)
1931 昭和 6年辛未 許斐友次郎  尾張 嘉助文書発見。
1940 昭和15年庚辰 奥村次八郎・西田久 須恵焼の調査開始。戦争に入り中止。
1954 昭和29年甲午 奥村次八郎 英国陶芸家 バーナード・リーチ 氏に高取・須恵焼資料提供。
1971 昭和46年辛亥 鴻江敏雄 須恵焼の調査開始。以後、新日鉄『製鉄文化』に「須恵焼御用窯を尋ねて 《No1~No8までを連載。
1974 昭和49年甲寅 須恵町歴史民俗資料館 開館  館による須恵焼調査開始。初代館長 板橋謙吉氏 資料収集開始。
1978 昭和53年戊午 須恵焼窯跡、須恵焼2点を須恵町文化財に指定。
明和6年銘釈迦誕生仏・天明4年祭祀器。
1979 昭和54年己未 久我五千男 久我美術研究展示館 オープン。記念図録による須恵焼の提示。
1980 昭和55年庚申 福岡市博多区御供所、地下鉄工事にともなう発掘調査現場から須恵焼出土。染付唐草 文皿(須恵在銘)
須恵町教育委員会 須恵焼窯跡陶器所部分を文化財指定のために買収。
福岡県教育委員会 須恵焼 窯跡を県史跡文化財に指定。
田原貞敏家文書 九州大学教授 中村正夫 判読。
田原正憲家文書 安川巌 判読。
1981 昭和56年辛酉 須恵町上須恵通称皿山ウランタン(裏の谷)造成地に、窯道具・磁器片の包含層発見( 窯跡と言われるが窯の遺構は発見できず。)
上須恵地区(南米里ニラガキ)小山田家(陶工の家系)墓碑銘調査実施。
歴史民俗資料館企画展 『筑前の磁器須恵焼』展 開催。
須恵焼 焼物カード・文様カード作成。
宇美町障子岳(極楽寺)に磁器窯跡発見。須恵焼特にウランタン窯出土の須恵焼磁器片 に酷似。
山口県豊北町田耕地区磁器窯跡 原窯を視察。 幕末の雑器主体。 摺絵が多い。
1983 昭和58年癸亥 須恵町誌 発刊
1987 昭和62年丁卯 須恵町歴史民俗資料館  No4 須恵焼窯跡陶器所横、法面崩壊部分より、黒田家 紋章入急須・須恵焼磁器片肥前磁器出土。昭和61年7月8日の崩壊で磁器片出土。
1988 昭和63年戊辰 須恵町歴史民俗資料館  No5 須恵焼創始者 新藤安平の家系発見。(警固長光山 香正寺)須恵焼 陶工 松永吉蔵子孫、松永吉人佐賀県鹿島市で発見。
1989 平成  1年己巳 須恵町歴史民俗資料館  No6 上須恵南米里 近世・近代墓 出土副葬品に須恵焼。 須恵焼陶工澤田舜山の子孫 福岡市南区皿山で発見。窯跡確認 澤田恵利
1990 平成  2年庚午 須恵町歴史民俗資料館  No7 津軽弘前市 陶工 五郎七の調査。金錆染付コーヒー セット (購入)玉ノ井時代)明治20年頃の製品。
1991 平成  3年辛未 須恵町歴史民俗資料館  No8 愛媛県砥部町 砥部焼の開窯期の上須恵陶工藤枝信吉の調査
御笠川(小野城市)で明治期の摺絵飯碗の破片採取。
1992 平成  4年壬申 福岡県地域史研究 No10 1月  表カスヤ 就御尋 池畑裕樹氏 史料提供
1993 平成  5年癸酉 須恵焼染付祥瑞水差購入
1994 平成  6年甲戌  
1995 平成  7年乙亥  
1996 平成  8年丙子 FS フクオカスタイル Vol 15 『幻の黒田藩窯 須恵焼』
1997 平成  9年丁丑  
1998 平成10年戊寅  
1999 平成11年乙卯 季刊 陶磁朗 #17
2000 平成12年庚辰 月刊 陶説 12月号  #573 筑前の磁器 『須恵焼』 1 近世・近代文書、文献資料から論考する
2001 平成13年辛巳 月刊 陶説 3・5・7月号  #576・578・580 筑前の磁器 『須恵焼』 2・3・4
2002 平成14年壬午 須恵焼 染付梅鉢文水差 購入
2003 平成15年癸未 須恵町制50周年記念  企画展
久我記念館  10月4日~26日
染付双龍双鳳文五段重箱(一段欠?)購入
2004 平成16年甲申 須恵焼 金錆染付村田秋江画花瓶 金錆染付吉嗣拝山絵付水注 2点須惠町文化財に指定
染付麦藁手花立購入
2005 平成17年乙酉